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■禁門の政変 【京】文久3年8月22日、朝廷は8.18政変の顛末を諸藩に告知しました。 その大意は <春以降、いろいろ叡慮を違え、攘夷親征の時期は未だに到来しないが、いずれ親征はされるつもりだったので祈願のため大和へ行幸する叡慮であった。しかし、三条中納言(=実美)らは即時親征を主張し、大和に行幸して軍議をするようにと叡慮を曲げたことは容易ならぬ次第だと思し召される。よって取り調べをしようと参内停止にしたが、押して参内するかもしれず、暴論の徒を率いて推参という事態になれば争乱になるので九門を固めた。長州藩も正議(のち、薩摩藩の抗議で「士気」に修正される。修正版は同月24日に再布告)壮烈に過ぎ、疎暴の輩もでてくるかと予測しがたいので堺町門警備を免じた。しかしながら、長州藩退去の際、三条中納言以下堂上7名が同行帰国したことは、朝威をはばからず、甚だ如何に思し召されている。堂上7名は早速帰京させるよう、長門父子(長州藩主父子)に仰せ付けられる事(この部分も削除されて同24日に再布告)>。(『徳川慶喜公伝』引用部分を口語訳by管理人) <参考>『徳川慶喜公伝』2(2000.10.4) 同日、関白鷹司輔熙が辞表を提出しましたが、天皇はこれを許しませんでした。 参考:『維新史』三(2004.10.31) 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 ■久光上京 【京】文久3年8月22日、薩摩藩士村山斎助は、大久保利通(一蔵)に対して書簡を送り、政変は十分勝利だったが、長州藩の大挙しての上京が心配されるとして、久光が早く上京することを促しました。 <ヒロ> 村山は、長州藩が上京すれば、京都の「諸藩は皆萎縮」して頼りにならないとみていました。また、朝廷については、中川宮・近衛前関白父子ら公家は、「ややもすれば御恐怖にて御因循の説のみ行われ」ている状況だと伝えています。佐々木克氏は、朝廷が、攘夷についても長州処分についても政変直後に基本方針を定めることのできなかったことを指すとしています(『幕末政治と薩摩藩』)。 政変を起した側の薩摩藩の藩士が、政変後の状況に危機感を覚えていたことが窺えて興味深いと思います 参考:『玉里島津家史料』ニp667(2004.10.31) 関連:■テーマ別「島津久光召命」■薩摩藩日誌文久3 ■長州藩 【長】文久3年8月22日、長州藩は世子毛利定広の上京を議決しました。 同月20日に京都から家老根来上総が戻り、大和行幸の詔(こちら)と藩主父子に上京を命じる沙汰を伝えました。これを受けて、この日、藩主父子、長府・徳山藩主、重臣を集めて会議が開かれていました。 京都とはタイムラグがあり、同18日の政変(こちら)の報はまだ届いていませんでした。 参考:『修訂防長回天史』(四上)p537(2004.10.31) 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」■長州藩日誌文久3 |
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